お詫び
個人的な事情で忙しく、前稿を書き途中のまま放置する形になってしまっていました。
折角『はろぶろ』さんからリンクして頂いたというのに、申し訳ありません。
それと、前稿の最後の部分、急いでまとめようとした為にやや意味不明な文章になってしまっていたので訂正しておきました。Z-1への考察ばかりで、℃-uteはどこいったんだと読み返しながら自分にツッコみましたが、後篇で多分繋がるハズですので… ってか余計な方向に話し伸ばしすぎというか、いろんなことを詰め込みすぎなんですよね。ゴメンナサイ。出来る限り別稿で補足するとか言う形をとって読む側に(書く側にも)ストレスを生じさせない文章にしたいと思います。
申し訳ありません。もう少しお待ち下さい。m(_ _)m
あらら
そんな事言ってたら、id:natsumi-crazy:20050619で、Musical Batonなるものを渡されてしまいました(しまいましたという言い方は失礼ですね)。
- Total volume of music files on my computer (コンピュータに入っている音楽ファイルの総容量)
- Song playing right now (今聞いている曲)
- The last CD I bought (最後に買ったCD)
- Five songs(tunes) I listen to a lot, or that mean a lot to me (よく聞く、または特別な思い入れのある5曲)
- Five people to whom I'm passing the baton(バトンを渡す5名)
の5つの質問に答えるというものらしいです。
natsumi-crazy氏、まわしてくれてありがとうございます。後ほど書きたいと思います。
℃-uteを考える(中)
(id:dolphi:20050614:1118804181 からの続き)
前稿ではBerryz工房を「開拓者」と位置づけた上で、それまでのローティーン・ユニットの変遷を辿ったわけですが、どのユニットもプロモーション的には失敗してしまったと言えます。それは何故だったのか、という問いかけをした上で、僕は「答えは『売れた』からだ」と述べました。「プロモーション的な失敗」と「『売れた』こと」というのは著しく矛盾しているので、「なに言ってんだこいつは」とお思いになられた方もいるでしょう。
確かにプロモーションの目的は、端的に言えば「売れる」ことなのですから、この2つは大いに矛盾していると言えます。しかしそれはあくまで「売れる」事の対象が「ユニット」であった場合です。そうでなかった場合、ユニットは一転してプロモーションの「足枷」になるといえます。その顕著な例として、前稿で取り上げた「Z-1」の軌跡を辿ってみます。
「Z-1」は、1997年に開催された第7回全日本国民的美少女コンテスト*1 で、応募者15万人の中から審査員特別賞を受賞した上戸彩、音楽部門受賞の根食真実、そして本選に残った西脇愛美と藤谷舞の4人で、コンテストの翌年1998年に結成されたユニットです。1999年には『Vibe!』でCDデビューを果たします。このデビューシングルにはジャケットが4パターンあるのですが、このあたりにオスカープロモーション側の「Z-1」に寄せる期待の大きさが見え隠れします。
その後12月には2ndシングル『You Your You』をリリース。翌年には3rd『BaKKAみたい!!』、4th『きめてやるサマーラブ』、5th『Be My Love』と怒涛のごとくにリリースを重ねていきますが、それとは裏腹に鳴かず飛ばずの状態が続きます。
そんな中、次第にメンバーの1人である上戸彩が頭角を現してきます。2000年10月にフジテレビ系ドラマ『涙をふいて』でドラマデビューを果たすと、翌2001年夏には高校野球応援ポスターのイメージガールに抜擢され一躍注目を集め、その年の10月にスタートしたTBS系『3年B組金八先生』への出演によってその人気を不動にした、というプロセスをたどることができるでしょうか。
しかし、あくまでこの段階で人気を確立したのは「上戸彩」であり、「『Z-1』の上戸彩」ではなかったという事に留意しておかねばなりません。そしてこれ以降女優としての路線展開を上戸彩に見出したオスカープロモーションは、もはや開店休業状態であった「Z-1」の看板を、自然消滅的にひっそりと下ろさせるのです。
「Z-1」のこのような最期については、アイドルユニットの扱いにオスカープロモーションが慣れていなかったから、そのプロモーション戦略を見誤ったのだ、ということが言われます。確かに、それも一理はあると思われます。実際所属タレント一覧*2 を見ると、どちらかというと上戸彩が大成したドラマ畑に強いという印象を受けます。楽曲中心のアイドル的ユニットとして、FLIP FLAPの所属を反証的に指摘される方もいるとは思うのですが、そもそもFLIP FLAPがその最盛期に所属していたのはオスカーではなくアーロンプラネットですし、オスカープロモーションに移籍した2002年10月以降、その活動は縮小するばかりではないかと個人的には感じたりしています。*3 オスカープロモーションは新たなアイドルユニットとして「美少女クラブ31」などを売り出そうとしているようですが、果たして。
…話が逸れました。戻します。
「Z-1」の名前の由来は『20世紀最後(=Z)にデビューし、21世紀最初(=1)のスーパー・スターになる』というものでありましたが、彼女たちが「21世紀最初のスーパー・スター」になることができなかった要因の1つは事務所のプロモーション経験不足*4 にあったことは上でも確認しました。しかしそれはあくまで要因のひとつに過ぎません。デビューシングル発売の2ヵ月後に発売されたモーニング娘。の『LOVEマシーン』が国民的大ヒットにつながり、「アイドルユニット」として遅れを取ってしまったのも不運であったと思いますが、やはり最大の要因はバランスの崩壊であると思います。
「Z-1」の場合、4人のうち上戸彩が飛びぬける形で一気にスターダムへと駆け上がってしまったわけですが、それはつまり「ユニット」の枠外での事であって、ユニットを置き去りにすることに他なりません。もちろん複数名でグループを組んでいる以上、その間に様々の差異が生じてくることは免れません。全部が全部、何から何まで均質なユニットなんてものはないはずです(あったら怖いな)。何らかの差異が生じてくるのは、むしろ一般的で、自然な事です。
しかし、「Z-1」の場合はその過程があまりにも急激過ぎました。同じ「Z-1」という枠に収めておくには、「上戸彩」という存在の占める割合が大きくなりすぎたのです。
(id:dolphi:20050620:1119207335 に続く)
*2:http://www.oscarpro.co.jp/profile/index.html
*3:最近はミニライブや舞台への出演を中心に活動しているようです。NHK教育の『天才ビットくん』には現在もメンバーとして加わっているものの、やはりテレビへの露出は激減してしまってるといえましょう。一時はテレビ朝日系で『原宿ふりふら堂』なんていうドラマバラエティの冠番組も持っていたのに…。
*4:オスカープロモーションが具体的にどのようなユニットに「Z-1」を育てたかったのかという話は推測になってしまいますが、4人という人数と、「初期の楽曲がSPEEDに酷似している」という指摘があるように、もしかするとSPEEDを模範としたグループ像を描いていたのかもしれません。しかしこれは本文で後述したことですが、デビューシングル発売の2ヵ月後にモーニング娘。の『LOVEマシーン』がミリオンヒットを飛ばすと、3rdシングルからは楽曲の性質がそちら寄りに傾いていきます(特に4th『きめてやるサマーラブ』などは顕著だと思いますが)。あくまで主観的な判断ではありますが、ただしかしそのユニット独自の色を出そうとせずに流行りものの模倣を追うこのようなプロモーションの姿勢にも、事務所の暗中模索の体が窺えるような気がします。
℃-uteを考える(前)
(id:dolphi:20050612:1118599493 からの続き)
Berryz工房のオフィシャルサイト*1 では、デビューシングル『あなたなしでは生きてゆけない』の発売日である2004年の3月3日が、彼女たちのデビューとなっています。
しかし実際には2ヶ月ほど前の1月14日に東京・中野サンプラザにおいてデビューイベントを行っているので、これが彼女たちの「Berryz工房」としての実質的なデビュー、お披露目と考えてよいでしょう。このデビューイベントにおいてプロデューサー、つんく♂は以下の様なコメントをしています。
(前略)
メンバーはキッズ15人から音楽プロデューサー、つんく♂(35)が選抜した8人。
つんく♂いわく「この8人はあくまでスターティングメンバー。学校生活が最優先のため、番組やコンサート、シングルCDのたびに、メンバー交代や人数自体を変えていく」という。
(後略)
〔http://www.sanspo.com/geino/top/gt200401/gt2004011503.html〕
「学校生活が最優先のため」という文言も今となっては空しく響くのみですが、注目しておきたいのはそのあとの部分です。
番組やコンサート、シングルCDのたびに、メンバー交代や人数自体を変えていく
しかし、皆さんよくご存知のように、Berryz工房において結成から現在までこのようなメンバーチェンジが行われたことは1回もありません。シングルは先日発売の『なんちゅう恋をやってるぅ YOU KNOW?』で7枚目を数え、またアルバム『1st 超ベリーズ』をリリースしているにも関わらず、です。
ここで、もう一度℃-ute結成についてのつんく♂からのプレスリリースを振り返ってみましょう。
(前略)
で、では、Berryz工房に所属していないハロー!プロジェクト・キッズをなんて呼ぶか・・・。
いつも迷うのです。
「Berryz工房以外??」「ハロー!プロジェクト・キッズの00と00と××・・・」
これは、いかん!
ということで、グループ名を決めちゃいました。
(後略)
新ユニット結成のプレスリリースにおいてこのような書き方をするその向こう側には、Berryz工房は(一応)現在のメンバーで固定である、という意識が垣間見えます。今後℃-uteとBerryz工房が、お互いのメンバーを入れ替えながら一種の共同体的に存在していくのなら上のような表現もまだわかりますが、それならばわざわざ別ユニットを組むまでもないでしょうし、どちらにせよ2004.01/14のデビューイベントにおける「番組やコンサート、シングルCDのたびに、メンバー交代や人数自体を変えていく」というスタンスとは現状が全く異なってきている、ということは賢明な皆さんであればお気づきかと思います。
おそらくBerryz工房は今後も「メンバーシャッフルの可能性がある」と掲げはするものの、よほど特殊な事情がない限りは(つまり、コンサートやシングルの「たび」といった、タイミング的な事情では)現在のメンバーラインナップを崩すことはないでしょう。ならばなぜ、つんく♂Pは当初Berryzに対し、上の様なスタンスでいたのでしょう。そして、そこからの転換点はいったいなんだったのでしょうか。
ここで、目を少し外に向けましょう。
いきなりですが、ちょっと大胆な事を言ってしまいます。
あくまで個人的な感想として、ですが、Berryz工房誕生前夜の時期は、ハロー!プロジェクトの大黒柱であるモーニング娘。にとって苦難の時であった様に思います。2002年9月の後藤真希、2003年5月の保田圭、そしてBerryz工房の結成と前後する2004年1月には、結成からそれまで「娘。」の体現者であったといっても過言ではない安倍なつみまでもが、「卒業」という形で娘。を去ってゆきます。このような、娘。興隆期を支えた面々の離脱など、この時期のモーニング娘。は方向性を見失っていたような気がしてなりません。
特に2003年は、1月におとめ組とさくら組という2つのグループ体制への移行が発表されたり、また5月には安倍なつみが四角佳子と「おけいさんと安倍なつみ(モーニング娘。)」というユニットを組んで曲を出したり、さらに7月にはその安倍の卒業が発表されたりと、迷走を続けてゆきます。*2
1999年9月、モーニング娘。7thシングル『LOVEマシーン』のミリオンヒットをきっかけに「国民的アイドル」への急勾配を駆け上っていったモーニング娘。と彼女たちを中心にした「ハロー!プロジェクト」。その地位が他を圧倒し、この時期までにまさに「揺るぎない」物となっていたことは事実ですが、その一方で「ハロー!プロジェクト」のプロモーション戦略が飽きられはじめていた、というのもまた事実ではないでしょうか。
それまでモーニング娘。の舞台裏を見守り続けた「生みの親」である『ASAYAN』からの卒業(番組自体も2002年3月に放映終了)によって、僕らは「ハロー!プロジェクト」が発信するモーニング娘。しか見ることが出来なくなった、と言ってしまうのは言い過ぎかもしれません。が、しかし、度重なるメンバーチェンジ/シャッフルと、広範なメディア・ミックス戦略の連続。それらに対する一種の「飽き」が、何となく世間に漂っていたのもこの頃からであると思います。
その段になってもなお、メンバー構成の変化や他とのコラヴォレーションに活路を見いだそうとしてしまった事務所の、プロモーション戦略における失敗は先ほど述べたとおりですが、それ以上詳しく述べる事は今回の論旨からはやや外れた議論になると思うので割愛します。
兎にも角にも、Berryz工房はこのような状況の中、2002年6月に発足したハロー!プロジェクト・キッズ15名の中から8名を選んで結成されるわけです。
この時期にこのユニットが結成されたことの意義とは何か? それはあくまで推測になってしまいますが、ハロー!プロジェクトにおける一種の「起爆剤」として彼女たちは世に出たのだと、僕は考えたいと思います。なぜなら、彼女たちは紛れもない「開拓者」であったからです。
「開拓者」とはどういうことなのか。
それはつまり、それまでにおいて、Berryzと同じ年代の「アイドルユニット」が存在していなかった、という点にあります。前掲のSANSPO.COMの記事においても「平均年齢は10・75歳で、ハロプロ史上最年少グループの誕生だ。」と触れられていますが、「ハロプロ史上最年少」どころか「アイドル史上最年少」のユニット誕生であったわけです。90年代半ばにおけるチャイドル・ブームにおいても、平均年齢が11歳を割り込むアイドル・ユニットというのは無かったように記憶していますから、何とも思い切った事をしたものだと思います。
しかし当然これはハイリスクな賭けでもありました。なぜなら、それ以前におけるローティーン・アイドルユニットというのはほとんど全てが「失敗」しているからです。ローティーン・アイドルユニットの先駆としては、チャイドル・ブーム全盛期に、野村佑香、前田愛、浜丘麻矢、大村彩子の4人で組まれた「Pretty Chat」が挙げられると思いますが、その人気はあくまで局地的なものでした。ブーム全盛期に、そのブームのトップランナーを擁してもこの有様でしたから、それに続かんとしたユニットは悉く崩壊してゆきました。ホリプロ系の「Puregirl」*3 やオスカープロモーション(=全日本国民的美少女コンテスト)系の「Z-1」*4 などが具体例としてあげられるでしょうか。「Z-1」からは上戸彩が飛びぬけ、「Puregirl」からは三津谷葉子、吉井怜が現在でも「活躍している」と言えるでしょうか。その様な「素材」を世に送り出すことに、これらのユニットは確かに貢献したかもしれませんが、しかし当の「ユニット」自体としては瓦解してしまったと言えます。
今までの、これらユニットが瓦解してしまった理由。それは何でしょうか。
答えは「売れて」しまったからです。
(id:dolphi:20050616:1118963395 に続く)
※いろいろの都合上、前篇としていた12日の記事を序篇とし、中篇としていたこの記事を前篇とさせていただきます。書いているうちにどんどん、だらだらと文章が長くなってしまうのが僕の悪い癖ですが、なにとぞお付き合いくださいませ。ご容赦をば。
レビューをしたいのですが
発売から1ヶ月が経とうかという昨日。
特に購入の予定などはなかったのですが。
衝動的にとでも言えば良いんでしょうか?
購入しました。
- 作者: 細野晋司
- 出版社/メーカー: ワニブックス
- 発売日: 2005/05/19
- メディア: 大型本
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でも、未だ包装は解いていません。ビニールかかったままです。
まだ、解く気にはならないもので…
厄介な人種ですみません。
そんなわけで、レビューはしばらくおあずけの模様です。
℃-uteを考える(序)
9日、natsumi-crazyさんの『逝的人間』(id:natsumi-crazy:20050609)において、ハロー!プロジェクト・キッズに新ユニット「℃-ute(きゅーと)」が結成されるという話を僕は初めて知ります。しかし、正直最初は「何故このタイミングで?」という感じでした。
プロデューサーのつんく♂は自身のサイトで
(前略)
で、では、Berryz工房に所属していないハロー!プロジェクト・キッズをなんて呼ぶか・・・。
いつも迷うのです。
「Berryz工房以外??」「ハロー!プロジェクト・キッズの00と00と××・・・」
これは、いかん!
ということで、グループ名を決めちゃいました。
今後の活動の内容はさておき、ここは、とにかく、
安倍のふれあいコンサートにも出演するわけだし、なんか名前を!!!
・・・と思いまして。
(後略)
と、非常に苦しいプレスリリースを出していますが、当然これは建前であって本音ではないでしょう。そもそも、Berryz工房以外のキッズメンバーを呼ぶのにそんなに迷うでしょうか? もし迷うなら、そもそも何故今になって、なのでしょうか?
…今回の結成劇は、なにやら根拠の段階から非常にあやふやなようなのです。ちょっと、そのあたりを考えてみることにしました。
今回の顛末を考える上でのキーワードは3つ。
- シャッフルユニット
- 二層分化と焦り
- 「キッズ」の境界線
話は、Berryz工房の結成まで遡ります。
(id:dolphi:20050614:1118804181 に続く)