℃-uteを考える(前)

dolphi2005-06-14

id:dolphi:20050612:1118599493 からの続き)

Berryz工房のオフィシャルサイト*1 では、デビューシングル『あなたなしでは生きてゆけない』の発売日である2004年の3月3日が、彼女たちのデビューとなっています。
しかし実際には2ヶ月ほど前の1月14日に東京・中野サンプラザにおいてデビューイベントを行っているので、これが彼女たちの「Berryz工房」としての実質的なデビュー、お披露目と考えてよいでしょう。このデビューイベントにおいてプロデューサー、つんく♂は以下の様なコメントをしています。

 (前略)
メンバーはキッズ15人から音楽プロデューサー、つんく♂(35)が選抜した8人。
つんく♂いわく「この8人はあくまでスターティングメンバー。学校生活が最優先のため、番組やコンサート、シングルCDのたびに、メンバー交代や人数自体を変えていく」という。
 (後略)


http://www.sanspo.com/geino/top/gt200401/gt2004011503.html

「学校生活が最優先のため」という文言も今となっては空しく響くのみですが、注目しておきたいのはそのあとの部分です。


番組やコンサート、シングルCDのたびに、メンバー交代や人数自体を変えていく


しかし、皆さんよくご存知のように、Berryz工房において結成から現在までこのようなメンバーチェンジが行われたことは1回もありません。シングルは先日発売の『なんちゅう恋をやってるぅ YOU KNOW?』で7枚目を数え、またアルバム『1st 超ベリーズ』をリリースしているにも関わらず、です。


ここで、もう一度℃-ute結成についてのつんく♂からのプレスリリースを振り返ってみましょう。

 (前略)
で、では、Berryz工房に所属していないハロー!プロジェクト・キッズをなんて呼ぶか・・・。
いつも迷うのです。
Berryz工房以外??」「ハロー!プロジェクト・キッズの00と00と××・・・」


これは、いかん!
ということで、グループ名を決めちゃいました。
 (後略)


http://www.tsunku.net/comments.htm#0611


新ユニット結成のプレスリリースにおいてこのような書き方をするその向こう側には、Berryz工房は(一応)現在のメンバーで固定である、という意識が垣間見えます。今後℃-uteBerryz工房が、お互いのメンバーを入れ替えながら一種の共同体的に存在していくのなら上のような表現もまだわかりますが、それならばわざわざ別ユニットを組むまでもないでしょうし、どちらにせよ2004.01/14のデビューイベントにおける「番組やコンサート、シングルCDのたびに、メンバー交代や人数自体を変えていく」というスタンスとは現状が全く異なってきている、ということは賢明な皆さんであればお気づきかと思います。
おそらくBerryz工房は今後も「メンバーシャッフルの可能性がある」と掲げはするものの、よほど特殊な事情がない限りは(つまり、コンサートやシングルの「たび」といった、タイミング的な事情では)現在のメンバーラインナップを崩すことはないでしょう。ならばなぜ、つんく♂Pは当初Berryzに対し、上の様なスタンスでいたのでしょう。そして、そこからの転換点はいったいなんだったのでしょうか。


ここで、目を少し外に向けましょう。
いきなりですが、ちょっと大胆な事を言ってしまいます。
あくまで個人的な感想として、ですが、Berryz工房誕生前夜の時期は、ハロー!プロジェクトの大黒柱であるモーニング娘。にとって苦難の時であった様に思います。2002年9月の後藤真希、2003年5月の保田圭、そしてBerryz工房の結成と前後する2004年1月には、結成からそれまで「娘。」の体現者であったといっても過言ではない安倍なつみまでもが、「卒業」という形で娘。を去ってゆきます。このような、娘。興隆期を支えた面々の離脱など、この時期のモーニング娘。は方向性を見失っていたような気がしてなりません。
特に2003年は、1月におとめ組さくら組という2つのグループ体制への移行が発表されたり、また5月には安倍なつみ四角佳子と「おけいさんと安倍なつみ(モーニング娘。)」というユニットを組んで曲を出したり、さらに7月にはその安倍の卒業が発表されたりと、迷走を続けてゆきます。*2
1999年9月、モーニング娘。7thシングル『LOVEマシーン』のミリオンヒットをきっかけに「国民的アイドル」への急勾配を駆け上っていったモーニング娘。と彼女たちを中心にした「ハロー!プロジェクト」。その地位が他を圧倒し、この時期までにまさに「揺るぎない」物となっていたことは事実ですが、その一方で「ハロー!プロジェクト」のプロモーション戦略が飽きられはじめていた、というのもまた事実ではないでしょうか。
それまでモーニング娘。の舞台裏を見守り続けた「生みの親」である『ASAYAN』からの卒業(番組自体も2002年3月に放映終了)によって、僕らは「ハロー!プロジェクト」が発信するモーニング娘。しか見ることが出来なくなった、と言ってしまうのは言い過ぎかもしれません。が、しかし、度重なるメンバーチェンジ/シャッフルと、広範なメディア・ミックス戦略の連続。それらに対する一種の「飽き」が、何となく世間に漂っていたのもこの頃からであると思います。
その段になってもなお、メンバー構成の変化や他とのコラヴォレーションに活路を見いだそうとしてしまった事務所の、プロモーション戦略における失敗は先ほど述べたとおりですが、それ以上詳しく述べる事は今回の論旨からはやや外れた議論になると思うので割愛します。
兎にも角にも、Berryz工房はこのような状況の中、2002年6月に発足したハロー!プロジェクト・キッズ15名の中から8名を選んで結成されるわけです。
この時期にこのユニットが結成されたことの意義とは何か? それはあくまで推測になってしまいますが、ハロー!プロジェクトにおける一種の「起爆剤」として彼女たちは世に出たのだと、僕は考えたいと思います。なぜなら、彼女たちは紛れもない「開拓者」であったからです。


「開拓者」とはどういうことなのか。
それはつまり、それまでにおいて、Berryzと同じ年代の「アイドルユニット」が存在していなかった、という点にあります。前掲のSANSPO.COMの記事においても「平均年齢は10・75歳で、ハロプロ史上最年少グループの誕生だ。」と触れられていますが、「ハロプロ史上最年少」どころか「アイドル史上最年少」のユニット誕生であったわけです。90年代半ばにおけるチャイドル・ブームにおいても、平均年齢が11歳を割り込むアイドル・ユニットというのは無かったように記憶していますから、何とも思い切った事をしたものだと思います。
しかし当然これはハイリスクな賭けでもありました。なぜなら、それ以前におけるローティーン・アイドルユニットというのはほとんど全てが「失敗」しているからです。ローティーン・アイドルユニットの先駆としては、チャイドル・ブーム全盛期に、野村佑香前田愛浜丘麻矢大村彩子の4人で組まれた「Pretty Chat」が挙げられると思いますが、その人気はあくまで局地的なものでした。ブーム全盛期に、そのブームのトップランナーを擁してもこの有様でしたから、それに続かんとしたユニットは悉く崩壊してゆきました。ホリプロ系の「Puregirl」*3 やオスカープロモーション(=全日本国民的美少女コンテスト)系の「Z-1」*4 などが具体例としてあげられるでしょうか。「Z-1」からは上戸彩が飛びぬけ、「Puregirl」からは三津谷葉子吉井怜が現在でも「活躍している」と言えるでしょうか。その様な「素材」を世に送り出すことに、これらのユニットは確かに貢献したかもしれませんが、しかし当の「ユニット」自体としては瓦解してしまったと言えます。
今までの、これらユニットが瓦解してしまった理由。それは何でしょうか。
答えは「売れて」しまったからです。


id:dolphi:20050616:1118963395 に続く)
※いろいろの都合上、前篇としていた12日の記事を序篇とし、中篇としていたこの記事を前篇とさせていただきます。書いているうちにどんどん、だらだらと文章が長くなってしまうのが僕の悪い癖ですが、なにとぞお付き合いくださいませ。ご容赦をば。

*1:http://www.helloproject.com/berryz/

*2:曲の善し悪しとか、グループとしての完成度とかそういった事は個々の感想にお任せしたいと思います。ここで「迷走」と言っているのはあくまでプロモーション的にとか、そういった意味合いですのでどうか誤解なきよう。

*3:大森玲子野村恵里酒井彩名吉井怜、工藤あさぎ、三津谷葉子奈良沙緒理

*4:上戸彩根食真実西脇愛美藤谷舞