透明感−書き途中

dolphi2006-12-02

「少女が少女たる要素とは、いったい何なのでしょうか」


ロッテ・キシリトールガムのCM*1 を見ていて、ちょっと観じたことがあります。
それは、夏帆の持つ「透明感」、についてです。
そもそも、透明感とは何なのでしょうか。尤もらしく口には出しているものの、いざ「それが何なのか」というところに目を向けてみると、それを巧く説明することはできません。「透明感」を説明する語句は「透明感」以外にないようにさえ思えてきます。また「透明感」を得る対象によっても、その基準というのは異なってくるようです、どうやら。
そのような点を踏まえた上で、今回はアイドルにおける「透明感」という点を切り口として、冒頭の問いを考えていこうかと思っています。


アイドルを表現する際における「透明感」という用語について、代替語(≠同義語)を探すとしたら何があるでしょうか。「清純」「純粋」。大方そのあたりなのではないでしょうか。では、「清純さ」「純粋さ」の指標はいったいどこにあるのでしょう。つまり何をもって「清純」「純粋」と言っているのか、という問題が起こってきます。
そこでやはり、その指標は各々が持つ「透明感」であると、そう仮説を立ててみます。何やら禅問答の様相ですが、ひとまずお付き合いください。
その「透明感」の淵源が何か、と考えます。これはあくまで男子視点であるという事を先にお断りしておきますが、その上で考えたときに、その「透明感」というものは一種の無垢さ、言い換えるならば、夫々が持つ過去の憧憬の中に在る「女の子」の欠片に由因しているのだと思います。さらにその向こう側には尤も無垢な存在としての女性的存在、即ち母的存在の介在が指摘できるような気がしますが、しかしそれは今回の論考には余り直接的に結びついてこないのと(根本的背景環境として大きな影響があるというのは確かですが)、煩瑣を避ける為に今回は触れません。
ところで、『各々が持つ「透明感」』『夫々が持つ過去の憧憬の中に在る「女の子」』と書きました。厳密に言うならば、そもそも「透明感」というものの絶対的基準は各々の中にあるもので、それは十人十色違います。しかしそれでは「透明感」を説明する際に具合が悪いので、こうして「透明感」とは何ぞや? という事を考えるわけです。つまり、「透明感」という言葉の普遍化を目指すわけですが、そこにおいてはある程度、イメージの統一化が必要になってきます。ある程度の人々に受け入れられるようなイメージを、規定という名の元で構築していくわけです。そしてその既定から外れた所にある夫々の感覚は、「個性」として各人に回収されていくのですが、しかしこのような構造はなにも「透明感」に限ったことではなく、今ある殆どの抽象語句に関して言える事だと思います。普遍化された言葉とその説明に準ずる感覚がまずあって、そこから派生する形で自分たち夫々の感覚が存在すると考えがちですが、実際は逆なのです。ただ僕たちは、生まれたままではその内在する感覚を表す術を知らないので、それを発言できるようにする手がかり、ツールとして「言葉」を獲得していくのだと、そのように考えます。


話が逸れました。
そのように「透明感」という語の普遍化を行う際にイメージの既定、言ってしまえば固化が行われるのですが、このイメージは果たしてどのようなものなのか。僕が考えるに、アイドル、というよりは女の子における「透明感」を考える場合、その根底イメージのアウトラインとして、「夏」「田舎」といったキーワードが挙げられるのではないか、と思います。この2つについて、少し説明をしなければならないでしょう。
まず、「夏」というキーワードについてです。女の子の無垢性ということをまず第一に考えるならば、季節によってその多寡が左右されるということはないはずです。しかし「透明感」を考慮に入れるならば、それは断然「夏」なのです。舞台装置は夏でなければならない。そもそも、夏は非常に生命力の旺盛な季節です。そして、天真爛漫な季節でもあります。また、夏は着る物も薄着になり、肌の露出が増える時期とも言えます。元来生物というのは肌を露出しているものであり、人間のように衣類でその肌を覆い隠してしまっているという事は、「その人を見えにくくしている」と言ってしまうのは言い過ぎでしょうか。しかし、「透きとおるような肌」という比喩からも窺えるように、「透明感」と「肌」というのは、感覚的に元来同一のベクトル上にあるものなのではないでしょうか。
次に、「田舎」というキーワードについてです。我々が無垢さ、素朴さを追い求めるとき、大都会に帰るという人は余りいないと思います。どちらかといえば、心の安まる場所へと向かうでしょう。それを端的に示すのが「田舎」というキーワードだと思うのです。無論、生まれも育ちも大都会、親戚も都市圏内にしかいない、という人も近年では多いでしょう。しかし、そのような人々にも「田舎」のイメージはあります。それを可能にしているのは、TV等によってもたらされる情報であり、そのイメージはステロタイプなものです。では何故、彼らからしてみれば実感のない、そのようなステロタイプな「田舎」が、都市圏に在る自らの「実家」よりも優位に立つのか。それはつまり、我々が「田舎」に何を感じているのか、という点に尽きます。我々は「田舎」という一種のフィルタを通して、その向こう側に「自然」を見て、感じ取っているのではないだろうか、そんな風に思います。もっと言ってしまうのであれば、こうも言えるでしょう。僕たちは「夏」に「田舎」で、憧憬の中の「女の子」に出会うことによって、何かを取り戻すことが出来るのではないか。それが何かというのは良く分からないけれど、しかしそれはすごく大事なものである、と。*2


「裸体」「自然」「異性」と出揃ったわけですが、ここで安易に「だから、『透明感』とは僕らの野生の本能に働きかけるものなんだ!」と本能論には持っていきたくありません。人間が自らの本能を抑制しつつ人間として歩み始めてからもう気の遠くなるような時間が過ぎているわけで、ここで本能を持ち出して結論とするのは余りにもナンセンスであると言わざるを得ません。しかし、その残滓的な形で、先述した「透きとおるような肌」という比喩につながるような感覚が我々に残っているのも、また確かではあります。
これだけうだうだと御託を並べておきながら何なのですが、結局「透明感」の明快な解釈は出来ずじまいでした。「透明感」とはつまり「透明感」ということであって、それしか補うべき言葉が見あたりません。*3 ただ、やはりそこには他と違う何かがあって、それが我々の胸を打つのだということは、皆さん経験されていることであり、また解っていただけたのではないかな、と思います。


しかし、どうしても何かキモチワルイ、喉の奥になにかこうつっかえた感じが嫌だ、という方の為に。遡及的に「透明感」という言葉に挑んでみるならば、それは「『少女』の『少女』たる要因」であると、こう言うことができると、僕は考えます。漸く、戻ってきました。
「少女」とは一般に言えば年少の女子を指します。未成年の女子と言い換えることも出来るでしょう。ところで、未成年の女子を指す言葉は、「少女」の他にも様々あります。女の子、女子、幼女…。それぞれ違う言葉である以上、そこには使い分けがあって然るべきなのですが、どうも渾然一体としてしまっている観は否めません。まあ無理もないかなとは思うのですが。*4 ここではそれぞれについてその相違を検討していくことはせず、「少女」と「その他」の違いを考えようと思います。
「少女」という語の持つ清新さが、他の同義語に比べ群を抜いていると感じるのは僕だけではないと思います。爽やかで、鋭くて、それでいて哀切さのある。繊細で複雑な印象を受けます。その要因は何かと聞かれれば、「少女」の指す対象時期の問題が多分にあるのではないかと思います。「幼女」という語は、そのような点で「少女」とは相容れません。*5 「少女」の語の対象として大方の賛同を得られるであろう時期は、おそらく就学前後〜高校生あたりまでではないでしょうか。この時期はまさに、肉体的にも精神的にも成長する、変化していく時期です。その変化の仕方は人それぞれですが、その中で「少女」と呼ぶに相応しい条件は、やはり凛とした透明感―それはつまり少女期以前に構築された「何か」―を持ち続けている事です。その成長期以前にある「何か」が、変わらないそのままの形で、成長してゆく肉体・精神に内包されるからこそ、そこに繊細で複雑なものが構築されるのだと思います。「何か」は、誰もが成長の過程において(忘れる、もしくは喪失する、という形で)手放していく傾向にあるものだと思います。これは本来青春期に手放す事が多いのではないかと考えていますが、近年では思春期において手放してしまう感が強いように思います。

*1:http://www.lotte.co.jp/products/brand/xylitol/cm/index.html

*2:ここの行、なんだか「A I R」シリーズ(ソフトハウスのKeyが発売したゲームソフト)の設定に似ているんだけど?、と言われそうですが、インスパイアされたわけではありません。むしろ当初成年指定作品として「A I R」シリーズが「夏」「田舎」ということをテーマに組み込んでいるということは、ある種ここで述べた事項の反証と成りうるとも言えるのではないでしょうか。ちなみに、「鳥の詩」は名曲だと思います。杉田かおるの方じゃなくて。

*3:あくまでアイドル、及び女の子を表現する上での「透明感」という言葉に対して、という事です。念のため。

*4:明確に別事象を指しているのならばともかく、同じ対象に対するニュアンスの違いなので、そのあたりの使い分け方は(逆に)個人の裁量に(逆に)委ねられるべきかな、と。よってこの段は僕の感覚が多分に投影されたものとなっていますが、ご了承ください。

*5:「少女」の前段階が「幼女」である、という方程式はあまり作りたくないのですが、ここでは便宜上、一応その様にしておくことにします。