ローティーンアイドルは市民権を得たか?(5)
前項はid:dolphi:20050517:1116347597。
- 結局何が言いたいのか?
- どうしてここで松岡版『トイレの花子さん』に言及する必要性があるのか?
…ということなわけです要は。やや前置きが冗長を過ぎたものになってしまいました。
個人的にはこの松岡版『トイレの花子さん』が、一つのターニング・ポイントではないだろうかと思っています。もっと厳密に言ってしまえば、この松岡版『トイレの花子さん』からターニング・ポイントははじまり、1997年の『木曜の怪談'97 「妖怪新聞」』においてそのひとつの(転換の)完成型が出来たと考えられるのです。またもう一つの、「チャイドル・ブーム」という観点から考えるならば、それは松岡版『トイレの花子さん』を起点とし、1998年の『新生 トイレの花子さん』*1 をその一つの区切りと見なせるという点でまた「ターニング・ポイント」であると言えるでしょう。
「少女俳優がアイドルとしてでなく、子役として主演できた最後の日本映画」
という指摘がありますが、*2 これは全くもってその通りだと思います。松岡版『トイレの花子さん』には、助演的位置で前田愛、前田亜季、浜丘麻矢など、後の「チャイドル・ブーム」の中核を担う面々が顔を揃えている*3 一方で、主演の河野由佳やライバル役の鈴木夕佳は、少なくとも「チャイドル・ブーム」のその渦中にはもういませんでした。その「差」は、つまり「チャイドル・ブーム」に乗れたか、乗れなかったかの「差」であるのだと思います。「チャイドル・ブーム」というものは、バブル景気並みに儚い一過性のものであったと考えていますが、河野由佳や鈴木夕佳は、ほんの少し「早すぎた」のです。状況が変わるその境界の狭間に、彼女たちは飲み込まれてしまったと言えるでしょう。そしてその後、彼女たちから「種」を託された世代が、その種を育て、そして大きく花開かせることになります。それが先述した「怪奇倶楽部」をはじめとする一連の大きな潮流となっていくのです。
(続く)